どのようなデザインを描くのか
ハイブリッドデザイナー 三谷克之輔(広島県福山市)
肉牛生産における競争と共生に関する技術論
日本の肉牛,28巻6号,29巻1号,29巻3号
1995.11,1996.1,1996.3.
に多少の修正(2001.8.7)を加え、改題(2008.7.2)した。
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目次
はじめに
今はボーダレスの時代と言われる。ボーダレスとはこれまでの枠組みが壊れることであり、
政治,経済,社会のあらゆる領域において、これまでの組織と組織,個人と組織の関係が崩壊し、
新しい枠組みの誕生を必要としている。また、地球環境,資源および市場が有限であることも我々は知った。
科学の発達は、これらの構造の変化を規定する「技術革新」をもたらしたが、
同時に、科学は全体を部分に切り刻み、身体と心を分離した。科学は、部分として再現できるもの
のみを対象として取り扱い、全体を見えなくさせ、対象の中から価値観を浮遊させてきた。
今や我々は、「科学技術」によって価値観や世界観が支配されていくという危うさに、地球規模で
直面している。また、科学の発達は実体験のない知識を増加させ、コンピュータの世界にはバーチャル・
リアリティ(仮想現実)が実現されようとしている。まさに、科学の発達は現実と虚構の世界をもボーダレス
化させつつあるのである。
一方、農業は「田をつくり米ができる」という言葉に象徴されるように、「生きていく糧」
を得るための自然と生物に対する人間の営みであり、農学は人の自然と生物への
対応の仕方を取り扱う学問である。「生きていく糧」には物と心の両面があるように、
自然と生物への対応の仕方には価値観,世界観がともなうものである。しかし、
科学はこれを切り捨てることで成立し、「進歩」してきた。
農学が「科学」であろうとすればするほど、「農業」から離れていく宿命もそこにある。
したがって農学の「成果」としての「技術主導型」の農業には、注意深くあらねばなるまい。
今、時代は新しい枠組みを模索している。農村には人の心を癒す自然と景観があり、
人が自然と社会に等身大で向き合っていける場が残されている。食糧の供給や自然と景観
の保護というだけでなく、今日の教育,福祉および健康の問題等、農業の貢献できる
場は大きいはずである。新しい枠組みは、農業サイドから積極的に提案しよう。
工業の論理−−それは物と心の分離により生れた科学の申し子である−−のもとに疲弊し、
自信を喪失してきた農業を、物と心の糧の農業として復活させるチャンスがきている。
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1.だれのための技術か
「規模拡大によるコストダウン」という高度経済成長期の目標が、今も農業の発達のモノサシ
として使用されているが、この道一筋のお手本を我々は養鶏産業に見ることができる。
養鶏産業は、過激な競争のなかで絶対多数の養鶏仲間を失ってきたが、その代償として
以前より繁栄し、社会的発言力を一層強固なものとしてきたのであろうか。何をもって繁栄
とするかの判断はそれぞれにお任せするとして、少なくとも確かに言えることは、「高級食品」
であった鶏卵がスーパーの安売りの目玉商品になってしまったことと、農家が鶏を飼わなく
なったことである。
百姓という言葉が使われなくなったとき、農家は自分で食べる卵さえもスーパーから買って
くることに、何も疑問を感じなくなってしまった。むしろ、そのことを進歩だと信じるようになって
しまったのかも知れない。「技術」を過信すると、人の価値観までもが浸食され、「技術」の下僕
となってしまう例は、この他にもたくさん認められる。牛乳が余っていようがいまいが関係なく
高泌乳技術、高級肉の市場はそれほど大きくないのに猫も杓子もビタミンA欠、和牛子牛市場
における育種価表示、ETによる乳牛からの和牛生産、これらの技術によって一部の生産者は
潤うかもしれないが、農家戸数を維持し、消費者に満足を与える道筋が確かに見えてくるのであろうか。
それぞれの技術の評価については、ずいぶんと反論も多かろうが、私には農家間競争を
あおることはあっても、農家戸数の維持につながる技術や技術の活かし方とは思えない。
農家が独自の力で、いろいろな道を選択をすることに異を唱えるつもりは毛頭ないが、
少なくとも国や県がこれらの技術に関与するときには、そのことによって生産と消費の関係
がどのように改善されていくのか、慎重に検討しておく必要があろう。
産地間競争や農家間競争は、競争による生産の活性化を目論むものであろうが、それは
パチンコで勝った味が忘れられず,また負けたくやしさでますます深みにはまっていくような
麻薬的な活力であり、農業の健全なあり方からはほど遠い、と私は思っている。今、農業にとって
最も大切なことは農家仲間をこれ以上減らさないための技術の活かし方と、
多くの農家の努力が報われるような生産と流通の枠組み創りではなかろうか。
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2.アメリカのHRMに学ぶ
アメリカのフィードロットで様々な交雑種が肥育されていることはご存知の方も多かろう。
あるフィードロットのマネージャーが「農家が勝手に様々な牛を飼うので肥育素牛の能力が
不揃である」と嘆いているのを聞いたとき、私はそれを農家の意識の低さと聞きとり、日本は
技術力でアメリカに負けないぞと、内心ほくそ笑んだのを憶えている。
しかしその後、農家が繁殖牛を飼う意味を肥育素牛の生産という一つのモノサシでしか評価
していなかった自分の愚かさを、アメリカのHRM協会の農家から教えられることになる。
「個が一つの全体であると同時に、より大きな全体の部分として、全体との関連のなかで
成り立つ」というホロンの概念は、多くの分野に影響を与え、ホリスティック医学とかホリスティック教育
という言葉を耳にするようになってきた。HRMとは、ホリスティック・リソース・マネイジメントといって、生物,水,ミネラル,エネルギー
などの資源(リソース)を、生態系や物質循環を考慮しながら、全体論的(ホリスティック)に管理
(マネイジメント)しようとする考え方である。
HRMは、アメリカの牧場経営者を中心とした集まりである。HRMに関するテキストブックとワークブックが発行され、
牧場の経営と草地管理の方法が具体的に示されている。
また、牧場主を中心に研究者,行政関係者,教育関係者,自然保護に関係している人,弁護士,芸術家,
一般市民など、多様な分野の人達が参加してHRM協会が組織され、活動している。アメリカの牧場経営は放牧が
主体となるが、草地の状態が良くて同じ面積で飼える家畜頭数が増加すると収入も増加することになる。
また、草地の状態が良いと裸地も少ないことになるので、表土がエロージョンで失われることも少ない。
牧場が草で覆われるとき、牧場主も市民も健全な生活を営むことができるのである。
しかし、牧場が破綻するときには、表土が流失し水質を汚染することによって、市民生活も脅かされる。
彼らにとっては、牧場経営と市民生活は一体なのである。
HRMは、まずチームを大切にする。農家経営の場合にはチームは家族であり、さらに
周辺の人々がチームに加わることもある。HRM協会の場合は、農家と都市住民をメンバ
ーとしたチームと言える。チームを大切にするとは、チームのメンバー全員の「生活の
質」を向上させることであり、そのためにメンバーの間でつねに「生活の質」の向上と
は何か、というコミュニケーションが図られる。さらに、そのような生活の質を維持して
いくためには、どのような「生産方式」が考えられるか、そしてどのような「生活空間(風
景,環境)」を創りだしていきたいのか。これらの3点を考えながら、チームが進むべき
目標を設定する。目標は実践の中で微調整しながら、目標から大きくはずれないように
進んでいこうとする。すなわち、HRMはチーム運営のための意思決定手法と言える。
また、HRMでは「自然の力」を大切にする。土壌微生物,昆虫,植物,家畜,水など
の相互の関係をうまく活用することによって、土地を肥沃にすることを考える。例えば、
表土を深く耕起することは、さらされた表土を雨や風で損失するだけでなく、土壌微生物と
そこに棲息する昆虫や小動物の世界をも失うことになるので、彼らは不耕起または浅く
耕起する方法を選択し、機械は自然の力を補完させるために最小限必要なときに使われる。
また、彼らは自然を守ることとは、自然を放置することではないと考えている。広い土地に放置された家
畜は、草のあるところに集り、草のないところには移動しないので、草のあるところは過放
牧となり、草のないところはますます砂漠化する。彼らは、家畜の頭数と土地条件を考え
た牧柵管理に熱心であり、草のないところには、エサを撒いたりエサ場を作って家畜を誘
導している。彼らにとって「競争」は無縁の世界であり、自然との共生とコミュニティ
ーの豊かさを両立させようとする世界がそこにある。
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3.多くの顔を持つ牧場
アメリカのバージニア州にあるサルトン氏の牧場は、ポリフェイス(多くの顔を持つ)
牧場という名前がついている。日本語では「百姓」牧場と訳すのが良いかもしれない。
その名が示す通り採卵鶏,ブロイラ−,家兎,豚,肉牛を組合わせて、実に資源をうま
く活用した経営が行われている。
肉牛を放牧肥育しているが、放牧後の草地には採卵鶏
とブロイラ−を移動しながら飼育し、さらにその後を追うように豚を移動していく。そ
のことで草を最大限に活用しながら、施肥と耕起までやってしまう。この農法の発想の原
点は、「どうすれば儲かるか」ということではなく、「どうすれば家畜を飼いながら土を
肥沃にすることができるか」というところにあり、そのような視点で農業を考えると、
様々なアイデアが生れて、自由な農業の展開が可能になったと言う。
しかも、まず自給自足のための生産を行い、次に自信がついたら近所の人に食べてもらう。
さらに自信がついたから販売をする、というステップを踏むことによって、500人の消費者と
直結した確かな販売ルートも確立されている。
ブロイラーの解体処理も家族で行っており、電話
と手紙の連絡により500km離れた所からも直接購買に来る業者もあるという。サル
トン氏は、「販売に関しては立地条件なんて関係ないですよ」と快活に笑う。
13才になる彼の息子も家業を手伝っているが、その少年の生き生きとした逞しい姿と家族のくっ
たくのない笑顔が今も脳裏を離れない。少年は学校には行っていない。日本の少年たち
の幼稚さとこの少年の逞しさの間の大きなギャップに、教育とは何かという問題につい
てあらためて深く考えさせられる。
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4.理想と現実とのギャップをどう埋めるか
ここに紹介したアメリカの事例が農業の原点を示すものであるとすれば、現在の
畜産はずいぶんと原点から離れてしまっているし、ますます離れようとしているよう
に思われる。このような事例はあまりに現実離れした話だと関心さえ呼ばないかも知れ
ない。しかし、われわれは何を目標として努力しているのか、その努力は報われる努力
なのか、理想があるとすれば現実とのギャップをどう埋めていけば良いのか、そのよう
な論議が十分になされてしかるべきではなかろうか。
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4-1)自然と共生する農業
農業の理想的なあり方は、経済や技術が先行する農業ではなく、その人の価値観,世
界観を農業に実現させる生き方ができることであろう。また、そのような農業が拡大す
ることは個性豊かな人材が農村に数多く育ってくることを意味し、都市に対する農村の
魅力をますます高いものとしていこう。
実体験のない知識のなかで生活する都会人にと
って、大地を踏みしめて自然と等身大で向き合って生きている農家ほど逞しくまぶしい
存在はない。わが国にもこのような農業をやっている素晴らしい人達のいることはあら
ためて紹介するまでもないが、私の出会った日本の素晴らしい農家の人達から学んだこ
とを少し紹介しておこう。
北海道旭川市の市街から車で約30分ほど走った山合いの清
流沿いに斎藤晶さんの「牛が拓く牧場」がある。斎藤さんの書かれた同名の本(地湧社)
はアメリカのHRMと全く相通ずるものであるが、「農業とは自然に溶け込み、自然を
学ぶ作業そのものです。さらに言えば、そのような農業に現れた自然の素晴らしさを、
皆さんと分かち合うことも、農業の役割ではないかと思っています。」と言う斎藤さん
の自然観,人と自然との一体感は西洋の合理主義を超越した東洋の思想に根差すもので
あり、世界に誇れる本だと思っている。私の駄文を続けるよりも斎藤さんの素晴らしい
文章をしばらく引用させていただこう。すでにご存じの方にもしばらくのお付き合いを
いただきたい。
「−−−戦後、開拓でこの地に入ったころ、私の農業は山の試練の前にことごとくが失
敗に終わり、急斜あり岩ありの山奥で農業ができるとはとうてい思えませんでした。毎
年苦労を重ねた末に、畑の収穫からはむなしく見放されていました。失意の日々を送る
うち、あるとき湧き起こるように、私の中に自然に対するまったく新しい見方が生れた
のです。−−−−この山にいる鳥や昆虫は、自分で汗水たらして何か作るということが
ない。にもかかわらず、悠々と暮らしているではないか。それにひきかえ人間は肉体を
酷使して、その上金まで使って、苦労に苦労を重ねても何の成果にもつながらない。
この違いはどういうことなのだろう。それは彼らが人間のように自然に立ち向かってい
くのではなく、自然という循環の中に溶け込んでいるからだ。ならば、人間も虫と同じ
姿勢で生きていけばいいではないか。−−−−モンゴルにはモンゴルの、スイスにはス
イスの、日本には日本の牧畜があります。その土地の気象条件に自分がなりきって、牧
畜を考えなくてはなりません。自分の意識改革です。私にとっての意識改革は、あると
き山の木に登って、人間の都合で自然に立ち向かっても歯が立たないから、自然の中に
入ってしまおうと考えたことです。発想の転換でした。そうすると、あらゆるものが宝
物に変りました。自然との調和を考えるとき、厳しい山も価値あるもの、貴重なものに
変るのです。人間は保守的な生き物で、自分が変るより相手が変るのが好きなのです。
しかし、一年では自然はわからないし、三年,四年でもわからない。いつまでも終わり
がない。自分ではっきり見えてくるまでは相当時間が必要です。ひょっとしたら経済的
にもいきづまる、そういう過程を経なければ自然の営みは見えてこないのかもしれませ
ん。−−−−自然の営みは、釈迦やキリスト、あるいはこれまでの大上人や聖人と呼ば
れる人たちが気が付き、説いてきたことだと思うことがあります。もし宗教とは何かと
問われれば、私の場合、山を眺めて山をそのまま受入れることが神や仏につながるので
は、と答えます。条件が悪いと感じるのは、それまで自分が持っていた自然観や人生観
で環境を見ているからだと気が付きます。−−−−」
素晴らしい本ではないか。斎藤さんもアメリカのHRM協会の農家も、いままでの現代
農法で苦しみ、経済的に行き詰ったところから同じ境地に至っている。単に「地球を大切
にしよう」という観念論からの農業ではないだけに、迫力があり説得力がある。引用し
ているうちに、この本を読んでもらえば、私が苦しみながら駄文を書く必要はないよう
に思えてくる。あまり長々と引用したので少し気が引ける。是非、ご一読をお薦めした
い。
斎藤さんの本に感動し、是非ともこの牧場に行って見たいと思っていたが,最近私の
北海道の仲間達の協力のお蔭で、その夢を実現することができた。実際にお会いして、
本で感動したもの以外に、さらに2つの発見をすることができた。
それは牧場が実に美しいことである。蹄耕法だからお金をかけない素朴な風景が人の
心を引き付けるのだろうと、正直なところ「あまり美しくはない」牧場をイメージしていたが、
まるで斎藤さんが、山をキャンバスにして絵を画いたというか、牛を使って造園したというか、
その美しさだけでも感動ものである。道路や法面まで同じように草で覆われ、しかもどの
場所も芝を刈ったように揃って短い。牛と羊の組合わせでこのような草地ができることは
聞いていたが、乳牛だけでこれだけの草地を維持できるというのにも感動した。「うちの牛
はいやしいから」と簡単に笑って説明される斎藤さんだが、これはタダモノではない。
もう一つの発見は、斎藤さんの物事にこだわらないというか、明るいというか、実にひ
ょうひょうとした自然体のお人柄である。実のところ不毛の山で開拓に苦労された経歴
からお会いするまでは、「苦労の汗の匂のする強健ないかつい大男」を勝手に想像し、
どう話しかけようかと少々身のすくむ思いがあったのだが、その心配も無用で初めてお
合いしたその日から、旧知の友人のように冗談を交えた会話をすることができた。
「これまで私のやり方は科学的でなく時代遅れの経営と批判され世間の相手にされなかったが、
時代が180度変ってしまったので、今では時代の先端を走っています。」
見学等で騒がしくなった世の中をちょっぴり風刺しながら、明るく話しておられた
斎藤さんは実にすがすがしいものであった。
サルトン氏のポリフェイス牧場も自然への畏敬の念は同じであるが、自然に溶け込
み自然を学ぶ作業が農業であるとする斎藤氏と、自然のもつ合理性を技術に活かそうとす
るサルトン氏の違いは、東洋と西洋の、人と自然との距離のとり方の違いに起因している
ものであろう。
HRM協会の人達は、自然農法の福岡正信氏を高く評価している。
彼の「わら一本の革命」は、英訳されてよく読まれている。それは、彼らにとっては拭いがたい合理
主義の世界を超えうる何かを、そこに見い出すからであろうか。正直なところ
現代科学と合理主義の真っ只中で仕事をしている私も、最初は自然農法を理解しようとし
なかった。それは全く異次元の世界の話のように思っていたが、HRMによってその意
味が理解できるようになった。福岡氏の自然農法は現代科学を全否定するものであるが、
私は、HRMによって現代科学に基づく現代農法と現代科学を全否定する自然農法とが連
続的な一つの線に結ばれるような気がする。現代農法が自然との共生を目指す手がかり
がそこに見えてくる。
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