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4-2)コミュニティと共生する農業

 科学によって人は自然と神から隔離され、心と身体を二元的に考えるようになったよ うに、社会の経済的発展によって生活と仕事(労働)は分離され、生産と消費を分けて 考えるようになった。

 産業の発達を何よりも優先させることに慣れてきた現代社会においては、 子供は労働予備群として大人達の教育観の世界に閉じ込められ、働く人々は社 会の中枢として会社や組織のオリに閉じ込められ、そして高齢者は働く社会のオリの外 に隔離されて、それぞれの人生の生きる過程を個人の歴史においても、人と人との関係 においても分断させられて生きている。

 一方、生活の核である家庭は、家から家族、家族から核家族へと変化し、さらに生活能力のある単独生活者も増えてきている。職場に おいても、これまでのピラミッド型の組織から、プロジェクトチームやネットワークな ど人と人との自由な関係による仕事が重視され、終身雇用も危なくなってきた。

 家庭も職場もある意味では崩壊しつつあり、また別の視点で見れば個人の自立が求められてい る。しかし、自立が進めば進むほどに、他者との関係が生じる。そこで、他者とは違う 自分を主張するようになる。それはいい。しかし、自立して反目しあって離散したので は、人と人との関係である社会は崩壊する。

 真の自立とは、他者を尊重することができ る自立であり、自立して連帯できることをいう。今、我々は単なる崩壊に向かっている のか、真の自立への道を確かに歩み始めているのであろうか。私は自立して連帯できる 社会を農業に見つけたい。

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4-2a)生産と消費,労働と生活

生産と消費の関係は、一つには時間の価値により説明できる。生産は時間に追われ、 時間を節約しようとする。生産の過程に効率を求めるが、 その過程を楽しむことはない。これに対して、消費は過ぎ行く時間や過程を楽しむ。し かし、人は同じことに対処するときにも、時と場所により、あるときは時間に追われ、 あるときは時間を楽しむことができる。すなわち、本来は消費と生産はその人の時間の 中にあり、消費者と生産者が分れて存在するものではない。
 生活において、食事を仕事の単なるエネルギー源の補給と考えれば、これは生産の過程となり、料理の時間に追わ れ、食事の時間を節約しようとする。また、食事を楽しもうというときには、料理の過 程から、食事をしながらの団欒に至るまで、過ぎ行く時間を楽しむことができる。また、 仕事においても、労働から早く逃れたいときと、楽しみながら働くことができるときが ある。

 農業には、生産の過程を楽しむ生活がある。そこでは生産と消費は一つになる。また、 生産する喜びは、研究する喜びともなる。そして、農業のプロは生産の過程の価値を徹 底的に追求することができる人達である。

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4-2b)農業は生活である

 岩手の菊池牧場に行くとヨーロッパ型の酪農を見ることができる。乳牛や豚を飼いな がら、時間のあるときにチーズやソーセージをつくる。放牧されたホルスタインにはホ ルスタインの雄牛を自然交配している。その菊池さんのつくったものを丸ごと食べてく れる会員がいるので、生産の時間に追われることもなく、肉質改善などに心を奪われる こともない。

 菊池庸博氏は、牛の飼育は自然にまかせればいい、と言う。そして、生産と消費の間 にある加工の付加価値の部分を農村に取り戻し、農村のなかの農業を最初から最後まで の完結型にし、農業の消費もできるだけ近いところで行われるようにして、 生産と消費の形態を一致させるべきだ、と主張している。

 また、なによりも農業における個の確立を大切にし、「農業人として、自分の目標を 実現するために本当に農業をしているのかどうかを自己確認することが必要です。お金 がないから農業を辞めたいのだったら、そんな人はすぐに辞めたほうがいいし、辛いとき、 苦しいときに仕事の価値を自分で問えない人は、どこへ行ってもプロにはなれません。

 私にとって農業は生活の場なんです。ギスギスして、隙間無くやろうなんて思うのは 都市と感覚が同じじゃあないですか。自分の価値観で、自分が生活できる範囲で、自分 が供給可能な範囲でやることが、農業の本質なんです。牧場でいえば、この中ですべてが完結する世界に耐えられる か、牧場での生活を徹底的に楽しめるかどうかということです。(ビレッジ,春,1992)」と 言う。

 菊池牧場の会員は、品質を買うのではなく安心を買う。それだけではない、生活を 買う。すなわち、菊池牧場とどこかで生活を共有したいのだと私は思う。

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4-2c)「農的くらし」への夢

 町において目立つのは、銀行、生命保険会社、病院、学習塾。これが今の日本の生 活を象徴している。安い利子でお金を預け、高い掛け金で将来に備え、沢山の薬で食欲 不振となり、「教育」に過熱して子供の生命力と夢を蝕む。そのお金を農村に投資して、 心身ともに健康な生活と老後も安心して住める社会をつくれないものか。労働予備軍と しての子供も、組織のオリのなかで働く大人も、オリの外の高齢者も、そこにはいない。

 農村の学校が人気のある教育機関となり、農協は互助組織の原点に立ち返り、人と人と が自立して連帯する。福祉も健康も農村では生活や仕事と一体となる。そのような「農 的くらし」に、私は夢を求める。しかし、「農的くらし」について語るのは、農業で輝 いている人達の直接の言葉がふさわしい。素晴らしい農家の人達に農業を大いに語って もらい。「農的くらし」への共鳴現象を引き起こしていただきたい。

 福井の山崎一之さんは、「本当に自分が欲しているものが何なのかを探すために、誰 もいない、誰も知らないところで、何もないところから欲しいことをみつけていくこと にして」、その一つの仕事として農業を始めたという。その後、「本当に必要なことは、 生活を積み重ねながら何かをしていくことだと思いだした」洋子さんと結婚し、 今は和牛の繁殖と肥育を経営の柱としている。

一之さん 「普通の生活」って言うけども、みんなそこに到るまでの過程をすっぽり落 としてしまっているんだよね。たとえば、戦後の焼け跡の人たちは、再興していく過程 でいろんな無謀なこともやったけど、とにかく欲しいものを求めて生活してきたから、 何が欲しいかわかっている。基礎があるよね。どこまでいってもへこたれない。でも、 これからの人たちというのは、基礎がぜんぜんなくて、スポンと合理的な形で、短期間 にいちばん必要な知識だけを身につけてしまっている。

洋子さん 土台がないから、いつ崩れるかわからない感じ。学校教育なんていうのは、 本当は土台を築くことをやるべきだけど、今は土台を築かないで、のっかることしか教 えていないと思う。
洋子さん とにかく、こちらに来てからは、生きている、そのことがおもしろいの。別 に楽しもうとか。何かしようというのじゃあなくてね。

一之さん そういう人間しか、これからは田舎に住めなくなると思う。自分で生きている ことをおもしろがれる人間じゃあないとね。ここでは誰も刺激してくれないもの。だから、 自分で何かできる人間が田舎には多い。 

洋子さん ほんとうに人材が豊富だよね。なんとなく集ってくるんやろうか。
洋子さん 農業が汚く見える。土が汚く見えると言う。でも、そうだろうか。私にとってはお医者 さまの仕事の方が汚い。見た目にはクリーンだけど、実際には雑菌がいっぱいいる。銀行だって きれいに見えるけど、あんなにバイ菌だらけのお札に触れるのは私なら嫌だ。 どこに、きれい、汚いの価値観を置くかが問題。ある視点をかえると、みんなひっくり 返っていくの。
−−−ビレッジ,vol.9,1993.

 自分の価値観を持ち、何かを求め、何かができる自立した人たちが、今、農村に集ってきている。 管理社会にスポンとのっかることの危うさを、彼らは充分に見抜いている。そして彼らは何よりも、 心身ともに健康な生活が、農村にあることを知っている。

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4-2d)「農的くらし」を地域に広げる
 「農的くらし」では、生産と生活は一体であり、生産と消費も一体である。生活に追 われる時間よりも、生活を楽しむ時間がある。自然と社会と等身大の関係をもつことが でき、心と体のバランスと健康がたもてる。そして、多くの人々は、そのような生活に どこかでいつかは係わりたいと思っている。今なのか、将来なのか、自分の生活の全て をなのか、一部なのか、それぞれの思いは様々ではあろうが、農村が具体的な提案を しないと、市民も反応のしようがない。

 農村は食糧を都市に供給するのではなく、食を包括する「農的くらし」を市民と共有する、 という発想を持ったらどうであろうか。「農的くらし」を個人から地域に拡大する。単なる 生産物ではなく、生活のある生産物を拡大する。「自給自足的生活」の原点を失わないで、 それを個人から地域に拡大する。すなわち売るために作るのではなく、自分達が食べるために 作る原点に戻り、生産の過程を楽しむ生活を市民にも味わってもらう。そのような仕組みを 考えることから、農業の新しい展望も拓けてくるのではないだろうか。

 ここでも『ビレッジ』から、古野氏の実践の言葉を紹介させていただこう。
「生産者と消費者の提携という時、それは農村と都市の関係として捉らえられがちですが、 私の考えは、消費者はどこにでもいる、ということです。この地域の中にも、近くの町にも 私が届ける野菜を待っている人はいるわけです。・・・私の畑は、私が食べ物を届ける家庭 のための菜園でもあるわけですから、その人たちもよく畑仕事に来ます。こういうスタイルは、 消費者が生産者の作業を手伝うという考え方から「援農」と言われますが、 私は「消費者のための縁農」だと思っています。手伝うのではなく、自分の食べ物がど のようにできるか、生命はどうやってかたちづくられるかを知ることができる機会。 だから、救援の援ではなく、縁結びの縁なのです。」 
       −− 古野隆雄氏(福岡;合鴨水稲同時作,ビレッジ,vol.11,1994)  
「食」とは栄養素を食べているのではなく、健康と生活風景を食べている。作るだけの 国際化と、売るだけの国際化という大量広域流通の仕組みが農業を破壊している。糞尿 公害問題も、農薬、抗生物質、ホルモン剤、添加剤等の残留問題も、生産と消費の完全 分離に起因する。地域で生産したものを、地域で優先的に消費する。このことで、消費 と生産の顔の見える信頼関係を維持しながら、過剰な規格化や品質向上のための生産ロ スを防止し、有害物質の人体への濃縮をなくし、健全な物質循環をとりもどし、物流に かかるコストとエネルギーを削減できる。産直運動も、安全性を求める消費者運動も、 環境問題も、「農的くらし」を個人から地域へと拡大するという視点で捕らえれば、そ こにコミュニティと共存する農業の絵が大きく画けよう。

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4-3)経済と技術と共生する農業

 最も現代農法に近いところで、経済と技術と向き合って農業をしている大多数の農家 にとってまず必要なことは、経済と技術に翻弄されない農業を考えることであろう。そ のためには、まず、それぞれの農家が、自然と生活と生産の関係において、自分の農業 の目標を明確にすることである。自分のない農業は経済と技術に翻弄される。皆で一緒 に同じ方向を目指すことは、競争と過剰生産の世界に引きずり込まれることを意味する。 仲間が競争の世界で脱落していく方向ではなく、それぞれの農家にはそれぞれの農業が あることを確認し、協力して生産を行なう道を選びたい。そのためには、生活を重視し た生産を行なうこと、コストを下げるのではなくゼロにできないかを考えること、需要 の大きいマーケットを開発すること、自分の技術に合った素材を選択すること、生産と 消費の関係を近づけること、健康と食の安全を提供することなどが考えられよう。

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4-3a)生活を重視した生産

 和牛は経済性で評価されるべきものなのか、生活のなかで評価されるべきものなのか。
経済として評価するモノサシに生産費がある。しかし、生産費というものは、ある仮定 のもとに算出された一つの数値であって、農家における和牛飼育の価値の全てを説明す るものではない。それにもかかわらず、一つのモノサシしか使われないと、和牛の価値 がそのモノサシで統一され、いつのまにか和牛というものの共通の「理解」になってし まう。とくにその共通の理解は、和牛を飼育している農家から離れた所で共鳴現象を生 じさせ、やがては和牛を飼育する農家の価値観までを浸食する。生産費を削減するため に規模を拡大するということが常識となり、生活のなかでの和牛は消失する。今、また、 和牛に育種価というモノサシが追加された。和牛の価値が育種価というモノサシで序列 化され、それは直接的にその和牛を飼育している小規模農家の序列化につながっていく。 育種価が和牛の改良に役立つとしても、それをどう使うべきかは別問題である。技術は農家 のために使われるべきものであり、農家が技術の下僕となることはない。子牛市場での 育種価公表を危惧する理由はそこにある。

 和牛は古来、家族の一員として生活のなかで飼育されてきたが、今日では高齢者に依 存する部分が大きく、また規模も小さいことを理由に、それ以外の規模の大きい専業的 農家の育成に力が注がれ、経済のなかでの飼育という流れが加速されてきている。しか し、鶏もかつて生活の中で飼育されていたが、経済のなかで飼育する流れのなかで農家 から姿を消した。そして今、生活のなかで飼育される鶏が一部の農家に復活しつつある ことの意味に、我々は注意を払う必要があろう。

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4-3b)コストをゼロにできないか.

 農業は本来、太陽と土と水と空気に恵まれたコストゼロの産業である。例えば、家族 の一員と言われた和牛の繁殖も、山林を利用した放牧で「きのことり」と言われた日本 短角種も、本来はコストゼロの家畜ではなかったか。コストゼロなのにいろいろと理屈 をつけて生産費をでっちあげている、と言えば少し言い過ぎとお咎めを受けようか。しか し、お金に換算した物の価値は時代により人により変動するが、生物にとって太陽と土 と水と空気の価値は不変である。太陽と自然の恵みから、自然の生産物を最大限に収穫 し、それを食を通して自然に返す。コストをかけた利益の大きさよりも、コストゼロの 肉牛の価値をもっと見つけたい。

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4-3b-1)放牧

 島根の三瓶山は、シバ草地が美しく国定公園に指定されたが、その美しいシバ草地は和牛 の放牧で維持されていた。しかし、放牧される和牛の姿が少なくなるにつれ、美しいシバ草地も 雑草とエロージョンにより醜く変貌していく危機にさらされていた。そのようななかで、川村さん は、牛が牛に教わり、人が牛に教わる放牧の知恵を失いたくないと、唯一人だけ残って 放牧を続けてきたが、放牧頭数を増加するにつれ、再びシバ草地が美しく蘇ってきたと 言う。「放牧して思うことは、牛の能力をもっと信じたらいいのではないか。飼ってい ますと、どうしても人間サイドで牛を考えてしまいますが、牛自体は人間がいま考えて いるのとは違う能力を備えているのではないか。それをこちらが感じて調べて、そうい うものをもっと勉強しなければいけないのではないかと思います。牛飼いはたいへんな ものとよく言われるのですが、牛も人も楽な牛飼いをしたいなと思っています。 ・・・それと、以前は大水がでますと、ススキだった時はだんだん崩れたりとかあったわけで すが、シバが生えてきましたらエロージョンがなくなったというようなこともあります。 ですから、自然災害を防ぐという面でもシバ草地が広がったらいいのではないかと思っ ています。(川村千里;繁殖肥育複合,畜産システム研究会報,10,1993.)」  

 コストゼロの自然の循環のなかに牛との生活があるとき、牛も山も人も、太陽と自然の恵みを最大 限に収穫して、自然の健康を取り戻したと言えるのではなかろうか。

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4-3b-2)生産のなかで資源を循環させる.

 生産は資源の投入と、生産物と廃棄物の出力の関係で説明される。しかし、廃棄物と いう考えは、単一品目の生産に依存することにより発生するものであり、生産のなかで 資源を循環させる農業には無縁のはずである。
 最近、肉牛肥育の大型経営において、堆肥を重要な収入源としているところが多くな ってきた。岡山の中央牧場の水島佑夫氏は、堆肥の販売のために肉牛を飼う、と言う。

 アメリカのフィードロットにおいても、糞尿による地下水の汚染が問題とされるように なり、一部にコンポスト化が試みられている。また、都市の屎尿をコンポスト化してテ キサスの放牧地に還元しようというプロジェクト研究も始っている。家畜の糞尿だけで なく、街路樹、家の廃材、スーパーの野菜クズ、屠場からの出てくるルーメン内容物な ど、土に還元できるものは何でも堆肥化しようというコンポスト会社もテキサスにはある。

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4-3b-3)乳牛を肉資源として最大限に活用する

 乳牛に和牛を交配してF1を生産し、そのF1に和牛を交配してF1クロスを生産する 方法がボツボツ定着し始めている。ある農家は、F1クロスにもう一度和牛を交配して子 牛を生産しているが、エサはトウフ粕を主体として飼育している。肉質も和牛に劣らぬ 成績を出し、「無から有を生ずるのだから、この方法は絶対に輸入牛肉に負けない」と言う。 乳牛を牛乳生産だけでなく、牛肉資源としても最大限に活用する。そのことも、資源を有効 に組み合わせて活用する点では、もう一つの資源の循環のなかでの生産と言えよう。

 コストを削減することと、コストをゼロにすることは、まったく異なった発想である。 コスト削減は現状の改善であり、削減した代償として当然そこには収入の増加が期待さ れている。また、現状の生産の枠組みのなかでの改善であって、そこからは今の枠組み を超えた発想は生れてこない。一方、コストゼロは現状の否定の発想から生れる。ゼロ より強いものはない。固定観念にとらわれないどんな生き方だってできる。そこからは、 これまでにない新しい枠組みが生れてくる可能性が大いに期待できよう。

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4-3c)需要の大きいマーケットを開発する

 牛肉輸入自由化の前には、乳雄肥育が大衆肉として需要の大きいマーケットを埋めて いた。輸入牛肉の影響によるホルスの値崩れの後に、そのマーケットをF1が埋めてきて いる。滋賀県にある平和堂は、滋賀経済連と大中農協(JAグリーン近江)の提案によ り、輸入自由化の始った年にF1をF1として販売することを開始した。その名は「近江大中牛」 と言う。和牛のうまさをもつF1を、地元の顔の見えるところで肥育し、ホルスの値段で販売 するというコンセプトは、今日の状況を先取りしたものであり、着実に販売量を拡大している。 この新しいF1牛肉のマーケットを開発した経緯について、担当の米田耕氏が率直に語ってくれているので、 その一部を紹介させていただこう。

 「我々が取り組みをさせていただいた相手先さんも非常に熱心な方が多い。我々の情 報も非常に組み入れていただけることが多く、そういう意味で本当に近くでよかった。 地元のものを紹介していただいて本当に良かったなと思っています。・・・F1とホルス と和牛とどう違うのか。・・・懇切丁寧に教えていただいた。・・・実際、食べてみたら うまいなというのが実感でした。そういうお蔭で、非常に我々に協力、あるいは指導して いただいたことが非常に多くて、今こういうかたちでやらしていただき、一つの柱商品 になって本当にありがたかったなと思っています。・・・いままでは商売というのは取 り引きだと思っていたのですが、そうではなく、もう少し取り組みの方へ力を入れてい きたい。我々は販売はプロだけれども生産の方は全然わかっていない。わかろうとしな かった部分が非常に多かったと思います。これは非常に大きな反省点です。」
                −−米田耕,畜産システム研究会報,15,1996  
 米田氏は、価格競争は「売価に合せた仕入」という販売側のエゴによる悪循環の結末 であると反省する。そして、これを脱却するために、販売サイドと生産サイドが単なる 商品の取り引きの関係ではなく、お互いに情報交換しながら協力して商品を開発し、そ の開発のリスクをお互いが負担していく関係にしていくことが大切であると言う。
「近江大中牛」は原価積み上げ方式で年間の枝肉価格が設定され、その原価に合せて売 価が設定されている。しかも、コストを下げることよりも、コストは同じにして品質を 上げることを彼らは考えている。ここでいう品質とは、肉質等級の4とか5ではなく、 1頭1頭のバラツキのない風味と安全性である。このように、規模の大きいスーパーに おいても地元を大切にすることにより、生産と販売の関係が、つくるだけと売るだけ の関係から、共に消費者の生活を考える関係に育ってきている。そのなかで、牛肉の商 品開発という視点で、F1が小売市場に定着してきたことの意義は大きい。
 ここで、肉質向上に努力されている肉牛関係者に、みかん農家からの貴重なメッセー ジを一つ紹介したい。
 「農園を維持し、生活できるだけの収入があれば、あとはみんなに喜んでもらえるかたちで栽培して、 自分も遊べる時間が欲しいんです。そして、それが実現できるのが農業じゃあないかと思います。 僕がそう思うようになったのは、ある失敗をしたからです。商学部を出ているものだから、 継いだばかりの時にコンピュータを導入して、農園別に分析してロスを発見していきました。 そうしてロスを削ると利益は上がっていくんですが、だんだんとサラリーマンと同じ感覚になっていったんです。 前年、前月対比いくらの収益とかね。そういうふうになりかけた時に、これではいけないと思った。
 いいものだから、高く買って欲しいというものをつきつめていくと、結局、飾りものをつくることになってしまうんです。 飾りではいけません。そうすると、おいしいけれども買える価格というものはどのくらいだろうか、 もう一度食べてみたいみかんとはどんなものか。ということの方が数字を分析することよりも重要になってきたんです。
        −− 中村常治氏(広島;西日光農園,ビレッジ,vol.10,1994)

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4-3d)自分の技術にあった素材を選ぶ

 乳牛と和牛の遺伝的能力は、F1を接点にして連続している。しかも、ハイブリッドというのは、 その連続した能力のなかから必要な能力を選択して、その能力の揃ったものを生産していく技術である。 その点ではF1よりもF1クロスの方が、能力を揃えることは容易である。 しかし、肉質は連続しているので、F1とF1クロスと和牛の差は、肉質の差にあるのではない。 それぞれの農家の立地条件と飼育規模において、自分の技術と目標にどの素材が最も適し、 しかも揃ったものを生産できるかという点で違うだけである。

 ここで、育種学的な意味での和牛とは別に、もう一つの「和牛」について考えておき たい。それは小さな規模で生活のなかで飼われている「和牛」である。これまでは、和 牛の肉質と「和牛」のイメージは一致していた。「霜降り肉」は、小さな規模の農家 が生活のなかで飼っているというイメージと重なっていた。しかし、しだいに肉質によ る明確な区分は困難となりつつある。また、和牛の繁殖も2000頭規模の企業的経営 が出現している。一方、小さな規模で生活のなかで生産されるF1クロスも出てくるであろう。

「和牛」のイメージは今後どう伝えられていくのであろうか。将来の牛肉市場における 肉質評価がどう変化するかは予測はできないが、少なくとも和牛から生活が完全に消えるとき、 「和牛」のイメージは確実に変化しているのではないかと思う。私は小さな規模で生活のなかで 飼われる「和牛」を大切にしたいと思う。生活のなかで飼われる「和牛」を大切にすることは、 農家を守ることと同じ意味であるからである。「霜降り肉」のイメージは小規模農家によって支えられ、 和牛の高価格が小規模農家の生活を助ける。そのことが、農家戸数の維持にもつながる。 和牛の頭数だけが維持されても、和牛を飼育する農家が激減したのでは、和牛を国が守る意味はなくなってしまう。

 農家は自分の技術と目標にしたがって、確かな素材を選ぶことが大切であり、それと 同時に、農家が自由に品種と種子を選ぶ権利が保証されるべきである。和牛が育種集団 として生き残っていくためにも、改良の成果をより多くの農家が享受できるシステムを 早急に整備する必要があろう。種雄牛の選抜システムと精液の供給システムの抜本的な 改革が急がれる。

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4-3e)生産と消費の関係を近づける

 生産と消費を一体とすることの意味については、すでに紹介した。また、生産と消費 の関係については、様々な角度から検討され多くが語られているので、ここではあまり 多くを語る必要はあるまい。そこで一つだけ、日本の肉牛生産の先端を走り続けてきて いる「なかやま牧場」の例を紹介しよう。

 なかやま牧場(広島)は、昭和35年に3頭の和牛肥育からスタートし、昭和40年 には乳雄肥育を始め、昭和44年には牛肉直販店を開設した。現在では数店舗のスーパ ーを持つまでに経営を発展させているが、輸入牛肉をいっさい取り扱っていない。これらの ことが、牛肉の品質と風味を安定させるとともに、地元で生産したものを地元で食べる というお客からの信頼につながって、販売量を着実に伸ばしている。また、スーパーを 直営することにより、コロッケやハンバーグ、デリカテッセンと事業の幅を広げている。 さらに、野菜農家、養鶏農家、稲作農家との直接取り引きも広がりつつある。そこで販 売されるものは、農家がそれぞれの思いを込めて生産し、一部の農家は自分でも直接販 売をしている。農業の生活を地域に広げていく一つの原型として菊池牧場を紹介したが、 この事例は、地域と結びついた農業が企業的経営の規模に発展したもう一つの原型と読 み取ることもできよう。

 中山伯男氏は「安いものが売れる訳ではありません。それよりも店のものが利益を出 そうと頑張る。しかし、あまり利益を出しすぎる店は危ないんです。再生産できる利益 が出れば良い。そうでないと、どこかでお客さんに無理な負担をさせることになって、 あとでそのしっぺ返しが必ず来るのです。」と言う。

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4-3f)健康と食の安全を提供する

 1年中毎日休みなく卵を生む日本の鶏は世界一だと信じていた養鶏業界に、 外国鶏の輸入が怒涛のように押し寄せて、またたく間に国産鶏を壊滅させた。その廃虚 のなかから養鶏を「健康と食の安全」を提供する産業として蘇らせた人がいる。山口の 秋川実氏(秋川牧園)は、有害物質が生物濃縮する恐ろしさを防ぐために「健康と食の 安全」に徹底的に取り組んできた。ポストハーベスト無農薬(PHF)のトウモロコシ を輸入する道を独自に開拓し、有害物質の濃縮の恐れのある動物性飼料を使用しないで 植物性飼料だけでも栄養価値を高くするための飼料設計技術を開発し、マイコプラズマ やコクシジウムを投薬ではなくて管理によって封じる技術も開発した。これらの技術開 発の過程で、無農薬無投薬に関した論文は皆無であったと言う。ここにも学問の中立と 真理の探求ということの欺瞞を伺い知ることができる。科学技術はそれを担う人々の思 想とその時代背景を忠実に反映した産物であることに改めて注意を促したい。

 秋川氏は動物性飼料を含む飼料と含まない飼料の香りを比較してみてくださいという。 鶏はもともとそんなに臭わないものだという。鶏がくさいのは飼料がくさいのだという。 そう言えば、アメリカのポリフエイス牧場のニワトリは全く臭わなかったし、ちゃんと 消化している牛の糞も臭わない。そして、鶏肉の風味はエサによって変り、動物性飼料 を含まない飼料で育てた鶏肉は「自然でおいしい」と言う。

 秋川氏は、これからの農業の生き残りは「産直の高度化」にあると次のように言う。 「産直の高度化とはなにか。それは食の健康性、安全性がより向上されること、そして それが、より低コストで生産されて消費者に届けられるような技術向上を含む新システ ムが構築されること、さらに、それらの産直が環境や農業を守り育てる運動性とともに 実現できるものであること、であると考える。この産直の高度化を実現するためには、 もはや、生産者個々ばらばらの取り組みでは間に合わない。その解決案として、生産者 も生協も、お互いの小異を捨てて提携し、特徴と力を生かし合うネットワーク組織をつ くることを提唱したい。(農薬に挑む−21世紀を拓く有機農業経営論,コープ出版, 1992,1994)」

 技術を安全性を柱として開発する。しかも、個として一つの農家で完結するものでは なく、「自立して連帯」するネットワーク型の生産システムを構築して、経済としても 成立させようとする。ここにも、「農的くらし」をネットワーク型の生産システムとし て地域に拡大するこれからの農業の原型を見つけることができる。

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おわりに

 我々は、それぞれの置かれた枠組みのなかで、農業を再生させるために頑張っている。 その努力が報われるためには、競争の論理ではなく、多様な農家が共生できる論理を共 有しなければならない。厳しい環境も視点を変えれば宝の山となる。しかし、努力の方 向を間違えれば、血のにじむ努力がますます厳しい環境をつくりだす。農業が暗いとい う「実体」も、農業への夢も、いずれも我々の「理解」のなかにある。そして農業への 「理解」の共鳴現象が、農業の「実体」をつくりだす。農業が生き生きとし、多様な農 家が共生できるという「理解」を共有したい。そのような「農的くらし」への共鳴現象 が農業を蘇らせてくれるというのが私の夢である。その夢は、小さな規模で生活のなか で飼われる「和牛」を大切にしたいという思いから始った。この拙文は、その夢を発信 するために、私自身が苦しみながら考えた稚拙な技術論である。ただ技術論といいなが ら、技術を具体的には語らなかった。技術の裏に潜む価値観を問いたかったし、そのこ とこそが大切だと思うからである。

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 参考文献
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 2. Sam Bingham and Allan Savory, Holistic Resource Management Workbook., Island Press, Washinton D.C.,1990.
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10. 中村常治,食べてもらえる「おいしいみかん」を提供することが,僕の仕事. ビレッジ,vol.10, 48-50, 1994. 
11. 秋川実,農薬に挑む−21世紀を拓く有機農業経営論,コープ出版,1992.

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