2 北海道旭川市における私の山地酪農の実践 斉藤 晶 氏(61才)
斉藤 晶 牧場
(1)牧場の概要
牧場所在地 北海道旭川市神居町共栄地区
旭川市南西13kmの丘陵地、標高170〜300m,気温 年間平均6.3度、
年間降水量1,160mm,根雪期間11月中〜4月上、積雪0.8〜1.3m
牧場開設年月日 昭和29年5月
経営概況 (平成6年末現在)
| 経営用地面積(ha) | 乳牛頭数(頭) | 労力(人) | 収支 | |||||
| 放牧地 | 採草地 | 計(含借用地) | 経産牛 | 未経産等 | 計 | 5 | 粗収入 | 所得率 |
| 92 | 50 | 142 | 80 | 45 | 125 | うち実習生1 | 2,489万円 | 33.3パーセント |
(註)収支欄は平成5年度の数字である。
(2)開拓当初−旺盛なチャレンジ精神で−
私自身のことを最初から言っておかしいんですが、私は臍曲りと言われる位、風変りな人間でございます。それで、人が右と言えば左と言いたくなって、人かどう言っても左へ行ってしまう、というそんな臍曲りの傾向があります。そんな訳で、これまでのところ、斉藤牧場の真似をしては駄目だよと、通達までも出されたことがあります。それでも方法がなくて、自分の理念通りにやって、30年経ってみたら、こんな経営になっていたということなのです。
また、私の一番の欠点は、気が非常に小さいということです。人に物事を堂々と主張することも得手ではありません。また、お前には経済観念がないと、よく言われてきました。そんなことで、これまで周りの人から笑われて、批判されて、圧力のようなものまでかけられてきましたが、私は私なりの理念通りやってみて、現在の状態になっているのです。現時点でも、それなら巧くいっているのかというと、そうではありません。今、深刻な問題点か山積しております。私もこのような研究会に参加させて濃いて、何か名案やヒントを得たいと、今日は参加させてもらっております。
(3)経営のあらまし
ア 経営規模−山地130haの大規模経営−
大方の概況を言いますと、家族は今10です。私と妻、あと長男、次男、三男、それに次男、三男に嫁かきて、孫が女の子ですが、2人づつ4人おります。それで10人になっております。それに実習生が1名おります。平成5年は北大を出た方で長野県の人ですが、春から秋まで手伝って頂きました。今年はどうしようかと思っていたところ、幸い兵庫県から、お金なんかいらないから、とにかく体験実習させてくれ、ということで今手伝って貰っています。病院を経営しているお父さんの次男妨で、全然農業の経験はありませんが、若い者としては珍しく気概のある人のように、私は感じています。
経営面積ですか、現在142haあります。そのうち第1牧場が60ha、第2牧場か70haであとは借用地です。第1牧場の方は、搾乳牛主体におきまして、第2牧場の方は、第1牧場で産まれた子牛を全部、肥育素牛も含めて放牧して使っています。
牛の頭数ですが、成牛が80頭おります。80頭のうち搾乳牛か70頭、その他乾乳牛、未経産牛が10頭位おりますので、第1牧場には80頭放牧しております。第2牧場の方には、それから産まれた去年の子牛が、大体60頭から70頭近くおります。自由化の影響で牛の値段が暴落してしまい、これらは1年半飼っておいても、大して変わりないから、やり繰り上、4カ月で出したので、現在搾乳牛の後継牛と、その他特別おそく産まれた牛か12〜13頭と、合せて20頭位しか第2牧場には放牧されておりません。それで第2牧場の牧草は、どこを食べたかわからない位草が伸びております。私は勿体ないと思っているのですが、うちの若い者は、その方が有利なように解釈しています。私はそれは逆だよ、と言っているのですか、今のところそんな問題点もあります。
イ 施設、機械
(ア)牛舎、機械−掘っ立て牛舎とビニール牛舎で−
牛舎は最初、45坪のブロック牛舎を建てましたけど、それから次々と急速に牛が増えましたので、その後の牛舎は全部、掘っ立ての増築、増築でした。しまいにそれも間に合わなくて、野菜のハウスを使って応急処置で入れたところ、それがまだ15年もハウスのまま使っています。北海道の旭川ですから、冬は零下30度も2〜3回あります、20度なんて珍しくありません、それでも野菜ハウスの中で牛が飼えるのです。
床はコンクリートも何もしていない、国鉄の枕木を1本120〜130円で払い下げてもらい、それをただ、づらっと並べただけで、何も止めておりません。また、気温が零下30度でも、ハウスの内は7〜8度までにしか下がりません。冬に1晩中に1尺位雪が降ることは珍しくありません、もし牛がいなかったら1晩でペしゃんこになります。ところが牛が入っているから、体温でもって雪が溶けて落ちます。それでも落ちた雪が横の方に溜まっていきますから、それをその儘にしておくと、だんだん上に積み重さなって潰されるので、横の方だけはひと冬に2回位除雪してやらなくてはいけないのです。これでも端の方が氷に固ってしまって、雪の室みたいになってしまうのです。ただ一番の欠点は湿度が高くなるということです。湿度が高くなった場合には両側を開けてやるんです。零下20度位の寒気が入っていって、中の水蒸気が凍って、青いビニールのシートが真白になります。そういうところが手はかかりますが、金がかかってなければ、それも仕方がないのではないかと思います。それでも牛は大丈夫なのです。
1棟のハウスの牛舎に25頭入っています。夏は搾乳する時に雨があたらなけれはいいのです。日中は暑くて入っておられないので、牛は全部山の木陰におります。夕方陽が沈んでからでないと帰って来ませんが、ハウス内は夜は暑いことはありません。
牛舎に何百万、何千万もかけなくてはいけないということも、今考えるとちょっと疑問に思っているところです。最近はハウスさえも要らないのではないかと考えだしています。第2牧場の肉牛の素牛なんかは、牛舎に入れるようにしてありますが、ほとんど入っておりません。零下20度になっても30度になっても、猛吹雪になっても、ほとんど外に出て牛舎に入りません。乾草の梱包をど−んと置いておけは、それで充分生きているのです。酪農というものはこういうものだ、またこういう施設をしなければならないよ、というようなことを指導されてきましたが、その辺も多分に疑問があります。牛の本来の姿に帰したならば、北海道の厳しい山でも放っておいても大丈夫です。雪の下になっても、死ぬということは絶対ありません。
最初から牧草を作らなければ、牛は育たないということでもありません。未開発の新ら山に牛を入れても絶対に大丈夫です。そういうように臍曲りと言われる位ですから、人が駄目だということに、自分がよ−しという気になって挑戦する、そうした臍曲り的なところを多分に持っているということです。
次に機械類ですが、トラクターは96馬力位の新しいので76万円のものか1台、あとは中古で、60馬力位のものか3台あります。そのほか一貫作業体系で出来る作業機があります。サイレージを作るのも、乾草を作る機械ではとんど間に合います。
ビニール牛舎
(イ)サイロ−トタン製の手作りで−
夕ワーサイロといっても、普通2千万円も3千万円もする真空サイロが旭川周辺でも一時流行しましたが、今遊んでいる方が多いようです。私はそういうサイロを造る気もなかったし、金もなかったし、貸してもくれなかった。それで私はトタンサイロで、普通の屋根用の3尺×6尺のトタンを10枚合わせて、頭数の少ない時は6枚、5枚という場合もありましたが、60頭以上搾るようになりましたら、10枚合わせてそれを8本から10本位造ります。1本に大体40t入りますので、8本から10本造ると、普通2千万円3千万円かかるサイロと同じ量のサイレージが出来ますので、2〜3千万円かかるところをトタン板で造ると、1本2万円しかかからないのです。従って10本造っても20万円で済むのです。
そういうことですから、とにかく金がなくて、自分が限界に到達すれば、そこで何かを人間は考え出すという習性をもっていると思うのです。ところが、甘さとか、限界に挑戦しないで行き詰まればそこから逃げるという姿勢があると、ヒントは感じられないのです。ヒントはどこにでもあるだろうと思うのです。本当に真剣に追求して、また自分か限界に挑戦するような積もりで、とことんまで行く姿勢がないと、ヒントやチャンスが見えないと思うのです。
トタン製サイロ
(ウ)水飲施設−廃車のトラック等を活用−
自然流水で水を飲む牛群
トラックの廃車利用の水槽
牧場は150mの標高差のある石の多い山ですが、山頂の方でも湧き水があるのです。放牧地の水飲場は、そういう所から引張って要所に水槽をおきます。水槽には、廃用のドラム缶を利用したものやトラックの廃車にビニールシートを敷いて水を引いて、そこで飲めるようにしてある水槽もあります。この水は冷い水です。水源地の近くに湧き水が湧いている所があって、そこに水槽をおいて、夏の飲み物としていつもビ−ルが入れてあります。突然お客さんがおいでになり牧場を見せてくれということになって、車でさっと登って行くといつもビ−ルが冷えているということです。
こういう所か5〜6ケ所あります。水槽などを造るにしても矢張り7〜80頭の牛が水を飲むということになると、20万円、30万円かかるのですが、これだったら1銭もかかりません。その上必要な時には何処にでも持って行けるということです。
また、うちの前の牛舎の下にきれいな川が流れています。旭川の環境課が調べたら、この川が市内で一番きれいな川だということなのです。牛を牛舎から出すと、いったん川に下りて水を飲んでそれから山に登っていくのです。川を渡って直ぐ住宅なのですが、その右側に一番最初に建てた家があって、現在は子牛を入れてあります。
(4)独創的な蹄耕法による山の開発
ア 先ず道路作りから−さらに周辺に拡げる−
背丈ほとある原植生
先づ道路を作り道路に播種
拓く前の山の状態は樹林に覆われ、笹が私等の背より高く密生しています。こういう林で笹薮に覆われた所を、最初は道路だけを3間巾から4間巾位に、ブルやユンボで造って、そして道路に牧草を播きます。牧草は、マメ科ではホワイトクロバーを主体に、禾本科ではオーチャド、チモシー、ケンタツキーブルーグラスそれからペレニアルライグラス、そういうものを7つか8つ位播きます。そして牛を放つと、道路に播いた草につられて奥まで入っていきます。
1年目の草地は去年の夏に笹を刈って、火入れしますが、笹の刈りはしがかなり残っています。出てくる笹は全部食べています。今夏の暑さのために草がちょっと休み加減ですから、新芽の笹は牛が非常に喜んで食べます。そうすると次から次へと出てくる竹の子のような笹も大変貴重な飼料となって、牛の栄養回復にはもってこいです。どんなにこじれた牛でも、まいりそうな牛でも、竹の子が出てくる時期に2週間程放したら完全になおります。その位笹の竹の子とか、春の新芽というものは栄養以上の生命力を含んでいるのではないかと思って、私は本当にびっくりしているんです。
イ 放牧地にほしい庇陰林−30〜50パーセントを目途に樹林を残す−
去年の8月の火入れで、木も笹やシバと一緒に燃えて、まともに火を受けたところは木が枯れます。枯れても切り倒すと、また片付けないと牛が歩きにくくなるから、倒さないでそのままにしておくのです。腐って風で倒れるまで放っておくんです。倒れるのは一度に倒れないから片付けるのに楽なのです。倒すと片付ける労力がまたいりますから倒さないことです。
要所要所の樹木は山全体の少なくても30パーセント位を残さなけれは駄目です。そうでないと、暑さのために山の温度が急に上って草が衰退します。また生育を一時やめるということが頻繁におこってきますので、山全体の少なくても30パーセント、地形によっては50パーセント位の木は残した方が効果的だと思います。牛の頭数と山全体のバランスを考えて、切るには何時でも切れますから、なるべく切らないようにして多め多めに木を残しておくことです。
潅木で残っているのはこぶしや胡桃なのです。牛はこぶしと胡桃の木の葉だけは食べません。あとはほとんど食べます、たらの木などは、鰊が固くなってくると食べませんけれど、小さい時は喜んで食べます。
白樺のような火に弱い木を残すためには、笹を刈らずに火が入らないようにしておきます。5〜6年経つうちに、牛に食われて笹がなくなり牧草に変り、白樺はそのまま残ります。
こういうような山の牧場に木がないということは、表土を流すことになります。ですから山というものは、必ず木を多めに残すことが必要なのです。そうでなくては山の魅力、また山地酪農の魅力というものは出てきません。
火入れ
蹄耕1年目の放牧地
蹄耕2年目の放牧地
蹄耕3年目の放牧地
傾斜地での採食
ウ 完成した牧場
(ア)草地−蹄の見える位よく利用されている放牧地−
蹄の見える位短く食われている放牧地
完成された草地は、ケンタッキーブルーグラス、ホワイトクローバー、ペレニアルライグラス等が主体になっております。この放牧地では牛の蹄が全部見えます。それ位短い草地になっています。だからゴルフ場みたいだなとよく言われのです。一般の酪農家がよく視察に来られます。昨日も岩手県の農業大学の学生と先生達がマイクロバスで来ましたけれど、斉藤牧場には、牛が食べる草は無いのではないかということも言われますが、ニュージーランドあたりでは、牛の蹄がみえるような草の利用の仕方というのが、今評価されているようなのです。
(イ)乳牛−自然に順応して健康・従順−
夕方搾乳に揃って帰る牛群
山地放牧に適合した乳牛−足腰が強い−
牛は積雪が消える頃には栄養失調気味の状態になります。ところが、雪が半分位あって牧草が青くならないうちから放牧しますが、5月の20日頃から草地にタンポポが咲き始める頃になると、栄養が回復して、毛艶がよくなってきます。うちの牛は夕方頃になると、全部牛舎近くまで帰ってきます。牧柵の扉を開けてやると揃って牛舎に帰ってきます。われ先になって走って帰る牛ははとんどありません。大抵順番がきまっているようです。だから慌てて急いで仕事をしなければならないということはないのです。牛そのものがひとつの秩序を作っているということなんだろうと思います。
(5)地域社会との連帯−素晴らしい山地牧場への魅力−
・教会
町の牧師さん達の有志が、こういう環境の良い所に教会を建てたいといった話もしていたので、そこで私、コンクリートジャングルの都会の中に、教会を建てて指導するのも一つの方法だけれど、本当の教会の意味は、自然というものを理解させることにつながると思うので、うちのような牧場に持ってくれば、本当に意味かあるのだよといった馬鹿みたいな話しをしていたうちにそれが本当になってしまったのです。それで教会は一昨年出来て、若い者の研修の場として使われたり、日曜に礼拝が終わった後などには、うちの牧場内でみんなでジンギスカンをやったりして楽しんでおります。
牧場内の教会一研修会にも使う−
・山小屋
これも町の有志の人達か、こういう環境が素晴らしい中に、山小屋があったらいいなと言うので、それならやってみたらと言ってやったところ、町で事業やっている若い幹部の人達か中心となって、旭川の市長も入っているんですが、ポケットマネーを15万円位づつ出しログハウスの山小屋を450万円位で造ったのです。それで落葉樹の間伐材ですが、これも林産試験場が、西ドイツから加工する機械を入れたので、試験的に只で加工してくれたものですから、安くできています。
ここに、頻繁に会員の人が来るのですが、空いている時は、一般の人にも開放しようということになっています。その代り電気代とガス代だけ負担して貰うこととしていますが。1泊去年(平成5年)までは3百円だったのですが、今年(平成6年)から5百円に値上げしてあります。
それで東京、名古屋、大阪あたりから釆て、全通の観光地を巡り歩いて、うちくらいの山小屋で1泊大抵4〜5千円位が当り前らしいのですが、うちではたったの5百円、それでビックリしているようです。
山小屋
・バンガロー
市の教育委員会の後援の下に、青年会議所の若い人達か段取りして、小学校の4年生から6年生までを市内から100人募集して、バンガローを組立てて釘を打たしたんです。雨降りの日に造ったんですか、全然嫌かる子供はいなくて、みんな張切つて面白くてしようがないというかたちで作ったんのです。ところが、こんどは市の農振地区の係の方から、農振法蓮反だからバンガローはみんな壊せということなので、どうしたものかと思案しておりましたところ、農振地区の見直しが行なわれることになりましたので申請した結果、バンガローが建っている所の3町5反ばかりが、農振地区から除外され壊さなくていいことになりました。
バンガロー
・幼推園
幼推園地区のような話も出ているのです。町の4つか6つの幼推園に話しをして、これからの幼稚園児はうちの牧場のように自然環境の良い所に放牧しなければ駄目すよ、と言って誘ったらみんな乗ってくるのです。1つの幼稚園で造れば問題かりますけれど、4つか5つの幼稚園で造って、1週間に1回とか10日に1日とか、うちの牧場に来て子供を放牧するという幼稚園の在り方が、これから理解されるのうだろうと思います。
こうやって、いろんな人か斉藤牧場に親しんで頂いて、自然というものは手の打ちようで、こんなに素晴らしいものになるのかということを現在理解されつつあるようです。

市民で賑わう牧場
(6)入植当初から今日まで
ア むずかしかった共同経営
私は山形から19才の時に、団体で今の場所に入植したのです。ところがほとんど他の人は満州開拓の義勇軍なり開拓移民で、家族を持って子供が2人3人いる人で、中には不幸にも途中で奥さんや子供を亡くして、1人で開拓来た人もおりましたが、そういう人が10人集まって旭川に入植したのです。
私は最初、入植者は満州開拓のベテラン揃いですから、やることを見ていれば、巧いこといくのではないかと思っていたのですが、ところか、それをじっと見ていますと、そこに精彩を感じるようなことがひとつも無いのです。従来の農業そのままなのです。満州で一流の経営をやっていた人達で開拓のベテランだから、素晴らしい方法を編み出すのではないかと、期待して待っていたのですが、全然それらしいことが無いのです。本当に新ら山に入って、そこを開拓したという人がいなかったのです。それで北海道の新ら山に入って、理論だけはとにかく素晴らしいのですが、ベテラン揃いと言いながら、実践して成果につながるものは何も無かったのです。この中で私も一応真似してやっておりました。満州から引き揚げて、金も無い何も無いので、共同経営をみんなでやり、土地はくじ引きで5町歩づづ配分して貰いました。
その土地も山の上で、道路も何も無い所にみな当っていますから、自立水準に達したら、また再配分しようということで、念書を入れて始めた訳けなのです。
ところが、1年も経たないうちから、条件のいい所に当った人、また少しでも理屈がよく展開できる人、そういう人がやめていくのです。それで4年経ってみたら、私しかのこらなったのです。その4年の間に、掘立小屋とは言いなから、10人の家族向きの笹で屋根を葺いた家を建ててやってきたのです。それで新ら山も笹を刈って、そばを播いたり、いなきびを播いたりして、自給用の畑を作ってきたのです。ところが4年経って、私が今度個人経営にならざる得なくなった時に、私か入る所かひとっも無いのです。起こした所もひとつも当たらなかったのです。それでも若いから、何んとかなるだろうと思って、一番山奥の一番条件の悪い所で、大きな川があって橋もない所に、希望して現在地に入ったのですか、その時に柱一本建ててくれる人もいなかったのです。笹を刈って畑を起してやるという人も誰れもおりませんでした。
この4年間に国から借りた金や、補助金もその他の資金までも、完全な共産性の共同ですから、全部生活費に廻してしまったのです。私は独身でしたか、1戸分として貰った補助金でも融資でも、貰ったものは全部、みんなで生活費として食ってしまったのです。他人の畑を起して家を建ててやっても、私が個人になったときは、笹一本刈ってやろうという人はいなかったのです。それだけみんな子供を育てるのに窮迫した時代だったのです。その時に私が会計をあづかっていたので、帳簿をみな持っておりました。それを見ると、私だけがみんなに利用されて、使われて放り投げ出されて、借金だけは1戸分として与えられたことが分ったのです。それでも私は気が小さいので、それに反論する気概がないのです、それで仕方がなしに、山形婚家に帰って、長男の兄にこういう経過でこれから個人経営になっても入る所もないから、家を建てる金を貸してくれと頼んだわけです。そうしたら、自分か4年間も他人の家を建て、畑を起こしてやっておきながら、借金だけ1戸分貰って、それに反論もできない、文句も言えないようなそんな甲斐性なしには、貸してやる金は1銭も無いと突き放されてしまいました。
それで、北海道に帰らないで、横浜にいる兄の所に行って、こういうことで実家の長男に話したら、手酷く叱られてこっちに来たという話しをしました。その時に仏具屋の丁稚に入って自分も因っていた兄が、なけなしの金の2万円ばかりを通帳がらみ、そんならこれを持って行って何とかしろやと、通帳をそのまま呉れたのです。中を開けてみたら2万円入っていたということです。それを基礎にして自分でやり出したのです。
イ 独創的な個人経営を始める
私と同時に個人経営を始めた人達は、満州開拓のベテラン揃いですから、その真似をしてみたのです。みんなが、いなきびや馬鈴薯、小豆、大豆、唐きびなどを作ったりするのを真似してみたのですが、私の所は開拓地の一番奥で、1戸だけ離れているものですから、結局、兎やネズミの集中攻撃を受けて、殆んど収穫がなかったという始末になったのです。私は個人経営になってから、今の家内と一緒になったのですが、このように行詰ってしまって、結局成果らしい成果かひとつもなくて、開拓協同組合から肥料1俵借りるにも、信用がなくて借してもらえなかったような始末で、打開の方法が見当たらなかったのです。
それでも何んとか、ここで生きなくてはいけないのだという意気込みでおりました。私は山に登るのが非常に好きだったのです。北海道で山仕事している人達は『馬鹿と煙は高い所へ上る』というのです。私なんかもその類だと思うのですが、山に登って上の方に行っても、一番高い木に登らないと物か見えない、自分の土地の全部の視野が見えないわけです。木の上に猿みたいに登って、何んか巧い方法はないものかと考えている内にはっと気がついたことがあったのです。鳥や虫は何にも仕事もしない、遊びながら悠々と生きているわけですね。人間が汗を流して血を流す程努力しても、成果につながらないということは、どういうことかということです。それで、これだったら、自然を征服しようとする姿勢そのものが間違いだということなのです。自然の中に自分から飛び込まして貰うという謙虚な気持を自分が持たなくてはいけないと、はっと気が付いて、そういう姿勢になりながら、次々と手を打ってみたら、だんだんと先が見えて来たのです。
最初のうちは、行政からも仲間からも、斉藤牧場の真似したら駄目だ、あんなことで山を開拓するなんてとんでもない話だと、上川支庁の検定官からも開墾補助を貰う時など、随分文句を言われたのです。ところが、私は開墾補助を呉れないと言うのならいらないが、うちはみんなの真似をしても駄目で、ネズミや兎のえさ作りに終ってしまうのです。それでも、ここで生きていくためには、自分なりに独自の方法を考えるより他になかったので、鳥や虫と一緒になったような積りで、在るものを利用するより他に方法がないのです。
そんな話をして何年か経っているうちに、みんなの所は鍬で一鍬一鰍、木の根、笹の根をとって綺麗にして作物を作って、優秀な開拓精神だといって褒められていたのですが、うちはこんな馬鹿みたいに、笹だらけにして、とんでもない話だと言われていたのです。ところか5〜6年経つに従って、うちの牧場はだんだん牧場らしくなってくるのに、綺麗に畑を作った所はだんだん物がとれなくなってきました。そんなことから10年も経たないうちに、開拓地のような不利な立地条件の所は、斉藤牧場を真似るべきだということになってきました。それが、上川支庁の小野拓殖課長、あとで経済部長になられましたが、その人か開拓地はこの方法でやることか一番手取り早いのだ、大事なことなのですということを普及所の緊急問題としてとり上げた。上川支庁管内また留萌支庁、十勝支庁管内の普及員を全部集めて、うちの牧場で何10回も研修をしたのです。それでも今考えてみると、本当の意味でそれを理解した普及員は1人もいなかったようです。それだけ仲々理解できないものなのです。
人間か本当に絶壁に立って、にっちもさっちもいかなくなっても、それでもそこに追求していこうという姿勢があると、本物が見えてくるということです。ところが、甘さがあったり、そういう努力もしないで要領よく巧くやろうとすると、本物は見えて来ないのだろうと思うのです。
ウ.魅力のある環境作り
今では山小屋も7戸位建っております。第2牧場の山小屋などは、日銀の旭川出張所の所長が道内の別荘を建てたいような所を見て歩いたけど、斉藤牧場が一番いいということになって造ったんのです。カナダの輸入材を使ったので高級別荘並みです。現在は九州に転勤されておりますが、夏休み、冬休みには家族で10日から2週間程度自然を楽しみに来られます。そのあとは、ほとんど空いているのです。それで、管理して貰って、建てさせて貰っているのだから、いつでも自由に使って下さいということになっています。山小屋や、バンガロー、教会には私は一銭も金を出しておりません。ただ、建てる場所などに、ブルを使って、建ち易くするために敷地に手を加えているだけです。
要するに町の人が魅力を持たざるを得ないような自然環境を作ってやればよいのです。うちの牧場を蹄耕法で次々とやっているうちに、今ではもう自然動物公園期成会を旭川大学の教授達が作ってくれまして、山小屋の人達か、みんな会員になっております。会員は150人位いるということです。牧場祭りなどをやると、会員の家族が隣近所の人を誘ってくるので300人位、多いときは400人位集まるのです。それで旭川市内の楽器屋の社長も会員になっているので、牧場祭の時は、いろいんな施設、楽器類なども必要なのですが、そういうものは社長に頼むと、全部只で人までつけて貸してくれるのです。旭川の飲み屋街を流して歩く人達も結構いますが、こういう人達に牛肉を腹一杯食べさせるから来なさい、と言うと、みんな喜んで来て賑やかにしてくれるのです。皆が次から次へと、喜んでプラスになるようなムードになって盛り上げていくのです。そういうふうに、皆が喜ぶことを考えなけれはならないと思うのです。
(7)山は宝物−山地酪農家の生き甲斐−
私が30年間、これまでいろんな経過を辿って、今感じていることをちょっと話してみます。自然というものは如何に素晴らしいものか、山というのは如何に素晴らしいかということです。山を見るとどんな山を見ても、私には宝物に見えます。ところが、今の若い人達、また都会の人達、農村の人達もそうなのですが、山は山にしか見えていないのです。だから私のように宝物に見えて、それならどういう手立て、順序を経て、素晴らしいものにしていくかということが見えて来ないのです。山は山にしか見えていない、ところが山というものは考えてみると、如何に素晴らしいものか、奥深いものであるか、そういうことに気がついて、その奥深さ、素晴らしさを、町の人達に如何にして少しでも認識して貰うかということを考え続けています。山小屋を建てたのも、教会を建てたのも、バンガローを建てたのも、また牧場全体を全部開放するのも結局自然の素晴らしさを認識して貰う一つの方法なのです。そういうことも農村の使命でもあるし、山地酪農としては、特にそういう使命感は大事な基本的問題だと思うのです。それで山を眺めて、また感じとって、いかなくてはいけないのかな、と思います。
今、農業状勢は、大変厳しい状態にありますけど、これを変えていかなくてはいけないと思うのです。従来の考え方の農業の方法では駄目だということは、はっきりみんな知っている筈なのです。ところが、どういう手立てで、どういう方向に持っていくかということになると、みんな頭を抱えているのです。そういう中で、私は私なりの理念で、こんな手立てでこういうことを考えていったら、こういう牧場になりますよ、どんな条件の悪い所でも、こんな素晴らしい牧場になりますということの一つの具体例になれば有難いなと思っています。そんなことで頑張っていかなくてはいけないと、頑張っています。
(8)残された問題−後継者への啓蒙−
一番問題は、今若い者達への世代交替の時代で、私らのような考え方を素直に理解できなくなっているということなのです。
若い者が勉強すると、自然とのふれあいということをほとんど無視していくのです。自然を征服することが近代化だと思うし、反自然にすることか高度の技術だと思い込まされてしまっているのです。本当の近代化というのは、自然との調和の筈なのです。自然をうまく有効に組み合わせることによって、循環の法則に乗せてやれば、日本の国土は素晴らしい方向に展開していける筈なのです。それをただ、技術、技術といっているものを考えてみると、全部自然に反するものが高度の技術になっていると思うのです。そうした基本的な間違いが、多分に今の若者に組み込んでしまっているということです。だから、行き詰まった場合、それの対応策として、私らがそれなら挑戦するかということになると、大概今の若い人達は挑戦するより逃げ出すのです。
私などには、山は宝物に見えるような素晴らしさに気がつくようなことが、それがこれからの課題なのだろうと思っています。農業の経営というようなものではなく、人間を如何に気付かせるかということが、一番大事な要素でもあるし、それさえ出来れば、経営はひとりでつながって行く筈なのです。
とにかく自然をどう捉えるかが、今後問題だろうと思うのです。すべて社会のいろいろな仕組みなどでも、自然というものを規準にもっていかなければ、恐らくもう打開できないような事態にきているのだろうと思うのです。自然の中に、私らが山に向かって学んでいることを、山地酪農をやる人は、町の人にもいかに理解して貰おうかと、その架け橋になる気概を持たなくてはいけないのではないかと思います。何か勝手な話ばかりしてすみません。これで終ります。
(9)質疑応答
石を動かさずに草地化した放牧地
(問)山地を造るのに、蹄耕法で5年か7年間に立派な草地ができてしまうのですね。実際に自分でやろうとすると、巧くいかないのです。そこらの極意を教えて下さい。お話を聞いた中で、林の木はそのままにして、下の笹だけを手で刈るのですか。
(答)普通の田圃の畦草を刈っている機械の一寸馬力の強いので結構刈れるのです。
(問)要するに笹を刈っただけで、木はそのまま置いて、反当どの位の頭数をそこに入れるのですか。
(答)そこの地力にもよるし、木の生え具合もあると思います。それか南面、北面、西面、東面とみな状態が違うわけです、その辺を自分が的確に判断しなければならないのです。
(間)その極意を教えて下さい。
(答)多め多めに放せばいいのです。牛が栄養失調になるなどということは、さらさら考える必要はないのです。北海道の場合は四国と違って、牧草か定着し易い気候風土ですから、どんな山でも、北海道や東北の山だったら、使えない山はない筈なのです。
戦後の開拓で、全国で22万戸、北海道だけで6万戸位入っています。それが10パーセントしか残ってない、90パーセントは山から追われて町に下がってしまいました。その土地が空いているのです。だから日本の国土が狭い狭いといっても、日本のこれだけの恵ぐまれた気候風土の中で、これに気が付かない筈はないだろうと思います。ところが気が付いていても、固定観念というか従来のいき方というか、技術の在り方というものでは何か踏み切れないものがあるのだろうと思います。だから私らのような、ちょっと臍曲りのような人間がそれに挑戦して、何んとかしようと思うのです。
(問)それは立派ですよ。牧場が出来上ったところを見ると、1年目、2年目、3年目と、年数で草地化の段階がわかるのですから、そこへの牛の入れ方を調整するのですか。
(答)今はほとんど牛任かせなのです。80頭から放しておくと、夏に草かちょっと弱ってきて牛の食べる牧草が少くなれば、笹をみな食ベることになりますから笹は衰退します。また、蕗や野草が多く出るとか言っても、春、雪が消えて牧草が青くなる前に放せば蕗などは1年できれいに無くなります。このようにして、年を追って次第に牧草が優占して、2〜3年で草地化が進んできます。従って、この間の牛の数は、牧草や野草など食べられる草の状況を見ながら増減すればよいのですが、私は余り調整しておりません。牛そのものが一つの道具なのです。酪農とはこういうものだという固定観念に捉われると、考えが及びません。
今うちの牧場でもやっていますが、新ら山には馬か肉牛かめん羊の方が良いのです。それに下拵えさせれば良いのです。牧草も何も播く必要はないのです。ただ道路だけ付けてやればいいのです。そういう簡単な方法があるのに、何故そういうことを行政や農政が指導しなかったのかと思います。
(問)行政や農政でやるより、斉藤さんが現地を巡廻して回って、この状態ではこの位でしようと指等した方が早いと思います。
(答)それはこうすれば、こうなるのですよということを見て貰うためにも私の牧場が出来ているわけです。最近、開発の関係者がよく見に来るのですが、これまでの開発の仕方で問題点があって、頭を抱えているのがあるのです。地形を動かさないで、素晴らしい環境に変る方法を、これから考えなければならないという流れになってきて、私の牧場に頻繁に見に来るのです。
(問)是非指導に歩いて貰いたいですね。新ら山をこなす方法を手を取って教えて貰いたいものです。
(答)日本の畜産は歴史がないから、穀菽農業の田園作りの方の技術は素晴らしいのですが、畜産の技術の放牧技術とか、山全体を眺めてその中にどういうふうに牛を放すか、どういう配置にしていくとか、そういう捉え方の技術というものは、全然なされていなかったのだろうと思います。それでヨーロッパやアメリカの出来上った牧場だけを見て、それを奨めたところに、開拓者が散々苦労した挙句に、山から下りなければならなくなったのだろうと思います。
(問)とにかく笹の根が何年か経つと、全部ぼろぼろになって、あのような草地になってしまうのですから驚きます。
(答)笹とか木の根は開拓の癌なのです。ところが私に言わせれば、笹とか木の根は非常な味方なのです。牛のえさにまわるのです。だから、そういうものを敵に廻したこと自体が不自然なのです。自然を理解すると、普通、資金が資本力と言いますが、資本力というものは、自然を理解することが一番重要な資本力だと思うのです。金をかけなくても、自然の理法を築くと、金などを何百万円、何千万円かけたよりも、づうっと成果につながる話なのです。それで町の人が山小屋建てたり、教会を建てたりしたくなるようなムードが出てくるということです。
(問)今造の山地酪農を見ると木の数が少ないですね、斉藤さん位の木の数を残しておいた方が全体がよいのではないかと思います。
(答)東京から以南の方は、木を適当に残さないと、草は耐えられません。山の保水力、暑さをしのぐことにしても、木は、絶対そこから切り放しては駄目なものです。
(問)私の牧場は、私が入植したのが昭和32年で、補助金を貰うために、全山にブルドーザーを入れました。私は楢原先生の指導を受けて牧場にしようと思った時は、もう全部表土が無くなって赤土ばっかりになっていました。その時に、ブルドーザーが入らなかった所だけにシバを植えた所は、現在そこはシバ山になりました。ブルが入った所は、木は生え放題にしておいたところ、今20年たって、ぼつぼつ木や野草も生えて、そこに今放牧しております。斉藤さんの言う蹄耕法は、山をそのまま牧場にする一番の早道と、楢原先生から耳が痛い程聞いています。一旦引っくり返したら牧場になりません。
(答)私の第2牧場は開拓協同組合で共同牧場を造るために、草地を全部機械造成した所です。その後3年使って牛を放す人がいなくなって、8年位放置して解散した後、私に縁があって入手した牧場です。山の上の方などは裸地になってしまって、全然草も生えていなかったのです。ところが、それを全然起こしもしない、種子も播かないのに、今は造成した時の草地よりずっと良くなっています。それは牛を放したからです。普通、牧草地は牛を放すと、だんだん悪くなっていくと、みんなそう考えています。放牧地を牛で本当に維持管理さえしていけば、次第に草地は増進していく筈なのです。
完成した蹄耕法による草地