中国山地の放牧


1.古代における牧
 牛馬を牧に放ち飼いした歴史は古いが、律令国家の基本となる大宝令(701年)において、13カ国に17の「官牧」が設置されている。この時期には国営牧が75ヶ所設置 されているが、主として関東、甲信を中心にして馬の牧が61ヶ所あったのに対して、牛の牧は九州、中四国に集中して10ヵ所と少なく、牛馬の牧が中四国に3ヶ所、関東に1ヶ所 であった。
 なお、当時の牛馬の利用は、馬は軍事用、運搬用、牛は儀式用、運搬用、一部に農耕用として使用されたが、 まだ一般の農家では使用していなかった。牛馬は支配階級にとって重要な資源であり、675年以来、繰り返し肉食禁止令が出された。 その後、明治5年(1872年)に解禁されるまで約1200年に及ぶ肉食禁止の時代が続いた。
2.「たたら」と放牧
 中国山地の海抜200〜500mに位置する高原は、稲作が可能で気温の 変動も少なく、住み易い環境である。弥生時代は戦闘集落があり、江戸時代から 明治にかけては尾根筋に牛市、魚市、煙草市などの市場集落が栄えた。 一方、標高500m以上の稲作限界地では、砂鉄と木炭による「たたら」製鉄が盛んであり、 この地域と重なって、それより少し広範囲に放牧の盛んな地域がみられる。 クヌギやナラなどの薪炭木は十数年たてば製鉄用木炭のために伐採され、跡地には火入れが行われ、放牧地として 使用された。この地域は全山草山で、山は村人の共同放牧地であったため、 林業の成立はきわめて新しい。木材を扱う木地屋集落は、近畿地方を中心に 分布し、中国山地で木地師が最も多かったのは美作である。
 なお、広島県は全国一の製鉄生産量を誇り、比婆郡の猫山周辺は製鉄で繁栄した。1901年に近代的製鉄所が 八幡に設置されたが、これは背後に炭田を控えていることと、防備に優れた立地であったことによるが、 当時は広島県の坂も有力候補地の一つとされた。

「瀬戸内の風土と歴史,243頁(山川出版社,1978)」より引用

3.放牧の方法
 牧場で牧柵に囲われて牛が飼われている光景は見慣れているが、個人が所有する牧場の歴史は昭和以降と新しく、 その多くは昭和30年代に入って増加したものである。
 江戸時代の中国山地は全山草山であり、だれの山でも、どこにでも牛を放つことが許された。
 牧柵のことを垣または壁といい、当初は家、畑、水田等を囲う垣(個人かべ,柴垣) が農家単位でつくられ(A図:柴垣のみの型 )、さらに集落単位の垣(寄合かべ,大垣)もつくられたが(AB図:柴垣・大垣のある型)、これは牛が入っては 困るところを柵で囲ったのである。
 柵や壁で囲われた内側を、かべうち、または垣内といい、外側をかべそと、または垣外という。これを牛との関係で見ると、柵で囲い込まれているところは、 牛が入るのを許さないところであり、柵で囲い込まれていないところ、すなわち「かきそと」では牛が入ることを許した。山に牛馬を「ゆるす」ことが、今で言う放牧にあたる。 放牧という言葉は、現在のように一定の土地を柵で囲い、その中に牛馬を放すようになって使われるようになった新しい用語である。
4.耕牧輪換
 垣内では水田の刈り跡に、また、垣外においては畑作の跡に、その土地の所有のいかんにかかわらず牛を放飼(野飼)できた。 これを刈跡放牧といい、放牧により共同利用できるようにするために、作付・刈取時期が規制されていた。  この習慣はヨーロッパの耕作強制に近く、刈跡放牧、内圃(垣内)と外圃(垣外)、などとともにヨーロッパの耕牧輪換に近い枠組みがあったと見なすことができる、と石田寛氏は指摘している。
5.牛飼子・牧童
 柵を作るには資材と労力が必要である。そこで、牛が入っては困るところに柵をしたが、その柵をつくるのが困難な地域も多くあった。このような所では、牧童(少年・少女)・牛飼が牛馬について歩き、 作物を食い荒されないようにしながら、良い草のあるところへと誘導した。
6.厩(まや)・駄屋(だや)
 牛馬を飼育するところを厩(まや)とか駄屋(だや)という。また、飼育場所が民家内にあるのを内厩(内駄屋)といい、 外にあるのを外厩(外駄屋)という。内厩は玄関から入ったところの土間を仕切って設け、牛馬は人と同じ屋根のもとで飼育される。
写真は、広島県比婆郡西城町の民家を平成4年に撮影したものであるが、厩と居住場所の間は壁と戸で仕切られている。




典型的な里山の風景と農家。この農家の内厩には2頭の牛が飼育され、裏山は牛の放牧に利用されている。




この農家の内厩は玄関の左側にあり、4頭の牛を収容できる。







最近の内厩は広い土間から戸で仕切られているが、 これは昭和30年代以降のことで、それ以前は農家の玄関を入り右手、 または左手は広い土間があり、納屋、物置、1〜2つの内厩、便所 を兼ねる多目的作業場であった。下図は、鶴藤鹿忠著「中国地方の民家(1966)」の76頁より引用したものであり、 18世紀初め頃建てられたと思われる古い農家であり、その当時を復元した図と大正末期に養蚕業を行うようになって 改造した平面図の両方が示されている。






























参考文献 1) 谷口澄夫・後藤陽一・石田寛.「瀬戸内の風土と歴史」,山川出版社(1978). 2)戸田博愛.「食文化の形成と農業」,農文協(2001). 3)石田寛.「隠岐牧畑の牧場化」,岡山大学教育学部研究収録,5,pp.30-51,(1957). 4) 石田寛.「かべうち・かべそと」,史学研究30周年記念論叢,pp.730-757,広島史学研究会(1960). 5) 石田寛.「放牧と垣内」,人文地理,12(2),pp.15-30,(1960).第2図はpp.18より引用した。 6) 石田寛.「野飼・放牧と牛飼子・牧童」,岡山大学教育学部研究収録,11,pp.1-33,(1960). 7) 鶴藤鹿忠.「中国地方の民家」,明玄書房(1966).